日本基督教団安岡教会
洗礼(せんれい、バプテスマ)は、形の上では水で清める儀式です。
イエスご自身が、伝道活動に入られる前に、バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。
そして、聖霊が鳩のようにイエスの上に上り下りしたと書かれています。
わたしたちの教会では、滴礼(てきれい)といって、ほんの数滴、頭の上に垂らすだけです。
洗礼式のときに読まれる序詞を記します。
洗礼式の序詞
わたしたち人間は、罪の中に生まれ、肉に属するものでありますから、そのままでは神のみこころにかなうことができません。思いや、言葉や行いによって神に背いているものであります。そこで、救い主イエス・キリストは「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」といって、罪のゆるしと新しいいのちとをあたえるためにバプテスマの聖礼典を制定されました。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」と聖書にしるされているとおりであります。わたしたちは今、この兄弟(姉妹)がみ言葉に従ってバプテスマを受け、キリストの聖なる教会に受け入れられ、そのみ体の生きたえだとなるように祈りましょう。
そして、洗礼を受けたものだけが、聖餐式にあずかってきました。
これらは、象徴的な儀式ですから、外見の変化はありません。しかし、洗礼を受け、聖餐式にあずかることで、内面的には色々な変化があります。それは、個人によって違いますが、どう変化しなければならないなどというものではありません。
変化が起こるとすれば、半分以上向こうから来るものかもしれません。
洗礼と聖餐式という聖礼典は教会抜きには考えられません。教会生活と聖礼典なしでも、聖書をしっかり勉強すれば、イエスの教えを学ぶことができると考えるのは、いかがなものでしょうか。
聖書を教えとして学ぶということと、イエスを救い主と信じて生きるということとは、少し違う(全く違う)ように思えます。聖礼典は聖書と共にキリスト教の根幹を成すものと思います。